「そうだ、竹人。バイオリンを聞かせてあげてはどうかい」
イネ=ノが提案する。
「あ、そうだ…」
立てかけられたバイオリンケースを見た。
そこでふと疑問がわく。キク=カは何の病気なのだろうか?見たところかなり重病のように思える。
この部屋自体がまるで集中治療室だ。だが…今は聞かないほうが良いのかもしれない。
ケースからバイオリンを取り出して構えて見せる。
イネ=ノと同じくタイスの瞑想曲を弾こうかと一瞬思ったが、なぜか弓を持つ手が止まって動かない。
だめだ…。のどが詰まるようなそんな感覚があってまた呼吸が浅くなる。
「何を弾いてくれるんだい?」
イネ=ノが促した。
「あ…じゃあ…イネ=ノも知らない曲を」
そういって一度深く深呼吸すると演奏を始めた。
透明な水彩画のように澄んだメロディ。
風をあおぐ小さな花のように、ゆったりと穏やかにながれてゆく雲のように、小鳥のさえずり、きらきらと輝く光の水面、
ざわめく木々の影に映し出された、少年。
真っ直ぐに見つめるその視線の先には何がある?蝶だ…蝶がひらひらと踊っている。空でダンスしてる。
旋律に流れるように描き出されるその光景。
そう、この曲は…明人が作曲したものだ。
同じフレーズが繰り返されたかと思うとやがて解けて形を変える波のような、そんなメロディ。
それに僕が少しアレンジを加えたものだった。
曲名は「水彩画の蝶々」。いつかこの曲を二人で合奏しよう。
そういいながら喜んでいた明人だったがその夢はまだ叶ってはいなかった。
そう、まだ夢は叶っていない。
気がつくと演奏はとっくに終わっていて僕はバイオリンを下ろした格好で突っ立っていた。
イネ=ノに声をかけられるまで僕はずっとそのままの姿勢で止まっていたんだ。
『竹人、有難う。素敵な音色だったね。こんな素敵な音色を聞いたのは久しぶりだよ』
明人、いやキク=カは優しく微笑む。
だめだ…この世界に来てずっと張り詰めていたものがキク=カと会った事によってプツンと音を立てて切れてしまったようだ。
「竹人、悪いけどそちらの椅子にかけていてくれるかい?診察をしたいのでね。」
そういいながら少し離れたところにある椅子に座るよう促される。
バイオリンをケースにしまうとイネ=ノにすすめられた椅子に腰を下ろした。
視界の先は涙でにじんでいる。イネ=ノはキク=カの手を取り脈を測っているようだった。
こう見ているとイネ=ノが本物の医者のように見える。
少しの間瞳を閉じた。ゆっくりと浅くなった呼吸を整えることに専念する。
これは、…あの人は、明人じゃない。顔があまりに似すぎていて動揺しているんだ。
そう…あの光景と重なってみる。
闇の中で連続的なコール音が鳴り響く。医師や看護士が慌しく部屋の中に出たり入ったりしている。
廊下では僕が一人その様子を見ながらどうすることも出来ずにただ佇むばかりだった。
ドアが開いた隙間の一瞬を瞳が捉える。たくさんの医療機器や配線、点滴チューブに囲まれて呼吸器をつけた弟が横たわっている。
その傍で母親が明人を慰めていた。僕は…どうしたらいい?ああ…明人が死んじゃうよ!!
僕には何が出来る?僕に何が出来る?ねぇ!誰か答えて!!誰か!!ねぇってば!!
静寂とともに闇に包まれる。医師も看護士も、母も姿を消し闇の中に浮かぶベッドには明人が眠っている。
そっとその横に立つと弟の顔を見た。真っ青な顔をしている。
「…あき…と?」
そっと名前を呼んでみるが反応はない。
体が動かない。
ただただ、瞳を閉じた弟の顔を静かに見つめることしか出来なかった。
僕には…何もできない。このままじゃ…明人は…!!
………と……
誰かが…
…た…と……
僕の名前を…
「竹人!」
名前を呼ばれはっと我に返る。
「竹人、大丈夫かい?」
僕の名前を呼んだのはイネ=ノだった。
気がつくと先ほどの椅子にもたれかかったまま僕は眠ってしまったらしい。体が汗ばんでいるのが分かった。