僕は、そっとしゃがみこむとバイオリンケースを床に置き演奏の準備に取り掛かった。
正直これで治せるなんて思わないけれどカンナの笑顔を思い出す。
僕が演奏中すごくはしゃいでいて、最後には笑顔を見せてくれた。
音楽には人の心を癒す力がある…よく母が言っていた言葉だ。
現にそれで心癒され救われた人を僕は知っている。
バイオリンを構えた。
僕は医者じゃないし神様でもない。
けれど、だから、僕に出来る事なんて限られている。
僕が今できる事は、こんな事くらいしか…。
弓を弦に引っ掛け、演奏を始めた。
マスネ作曲「タイスの瞑想曲」
ゆっくりした穏やかなテンポの曲だ。
昔これを病院に慰問した時弾いた事があった。
ちょうどメグサと同じような頃合の女性がいて大変心が癒されたと喜んでくれていたのを思い出しこの曲を選曲した。
これが少しでもメグサの母親の耳に、そして心にほんの少しでいい、少しだけでもいいから響いてくれたのなら…
そして、少しでもこの涙を止めることができたのなら…。
気がつくと僕は演奏しながら涙を流していた。
何故だろう。
悲しくも、メグサの母親に対する気持ちが溢れてとまらない。
少しでも、ほんの少しでもいい、ほんの少しでもいいから!!
旋律に僕の想いが重なり織り込まれてゆく。
もし本当に僕が医者だったら、神様だったら間違いなく適切に彼女の症状や苦しみを和らげてあげられるのに、
それが僕にはできない。
ただ、こうやって想いをのせてバイオリンを弾くことしか。
それだけしか、でも、それだけでも、それだけでもいい。それだけでもいいから…!
最後の高音の一音をビブラートさせながらできるだけ長く、長く引き伸ばして演奏を終えた。
構えたバイオリンをゆっくりと肩からはずし息を飲んだ。
母親は依然、天井の一点を見つめたままだった。
やはり僕に出来る事なんて何もなかった?これで僕の命も終わりなんだろうか。
だが、最後に人として、僕が出来るせめてもの事をしたのだから最大の後悔はしなくて済んだかもしれない。
もし、演奏しないで窓から逃げていたら命は助かったかもしれない。
けれど一生後悔をしていたに違いない。
そう確信したから僕は逃げずバイオリンを弾いたんだ。
もう後悔なんてない。
そっと俯くとメグサがこちらに駆け寄ってくる音がした。*
ああ…これで終わりか、と思うと次の瞬間にメグサが叫んだ。
「母さん!!」
思わず僕は閉じた目を開く。
メグサが母親の枕元に立ちじっと表情を見張っている。
そしてもう一度母さん!と叫んだ。
するとジニアとアリノミもホクシアもメグサとはベットの反対側の枕元に駆け寄り母親の様子を必死で見守っている。
次の瞬間、かすかに聞き覚えのないか細い声が震えるように聞こえてきたのだ。
え?
思わず僕もメグサの横に立つ。
今までずっと天井の一点を見つめていた母親の視線がメグサのいるほうへ移動しているのだ。まさか?!
「お母さん!わかりますか?!」
僕は思わずメグサの母親の顔を覗き込んだ。*
するとなんと細く、静かに微笑んだではないか。
人形のように凍てついていた表情が水に溶けた氷のように僕に微笑み返したのだ。
「母さん!!」
子供たちは表情を取り戻した母親に抱きついて声を上げて泣きだした。
にこりと微笑んだ母親の瞳は次の瞬間朝日が光を差したように紫色の宝石のように輝きだしたのだ。
奇跡だ!!
僕も思わずつられて泣き出す。
たった今会ったばかりの人の表情が戻っただけなのになんでこんなに嬉しいんだろう。
うん、嬉しい。
嬉しいことじゃないか
嬉しすぎる!!
四人の子供たちとそれに混じって泣く僕を母親は嬉しそうに上半身を起こすとその両手で子供たちの肩を抱いた。
母親は静かに言った。
「ありがとう。もう、大丈夫よ」
メグサが泣きじゃくりながら母親を強く抱きしめて言った。
「母さん!!母さん!!」
僕は少しほっとして彼らから一歩離れたところに立った。
何が効いたのかはわからない。
本当にバイオリンの音色が効いたのだろうか?
音楽療法?こんな簡単に?とにかく彼らのお母さんが無事健康を取り戻したんだ。
良かったじゃないか。
正直自分の命が助かったことよりも断然嬉しかった。
涙を袖でぬぐいメグサがこちらを振り返った。
「本当に有難うございました!!」
腰を九十度曲げてお辞儀をしてみせた。
他の子供たちも口々に泣きながら礼を言う。
僕は嬉しくて彼らににこりと微笑んで見せた。
と、突然外が騒がしくなったことに気がつく。
次の瞬間、乱暴に複数の人間が階段を上がってくる音が聞こえた。